関東連合のトップとして長年活躍された柴田大輔さん。
2021年に41歳の若さで亡くなると、これまでの経歴の凄さが再び脚光を浴びました。
今日は元関東連合のリーダーであり、敏腕実業家、またはベストセラー作家として活躍された柴田大輔さんの生い立ちや経歴について書いてみたいと思います。
柴田大輔の実家は裕福も在日2世で両親の仲が悪い。小学校でグレ宮前愚連隊の総長で何度も逮捕
柴田大輔さんの実家は会社を経営しており、比較的に裕福な家庭に生まれ育ちます。
父親は純粋な日本人ですが、母親は在日2世でありました。
両親の仲が悪く、小学校の高学年でグレて、悪の道に進んでしまいました。
名前 | 柴田大輔 |
ペンネーム | 工藤明夫 |
あだ名 | チビ大。 |
出生地 | 東京都調布市 |
出身地 | 東京都杉並区 |
生年月日 | 1979年5月24日 |
死没 | 2021年11月28日(42歳没) |
所属 | 宮前愚連隊。 |
仕事 | 実業家。作家。 |
小学生にして高校生の鞄持ちし不良の世界を学ぶ。与国秀行を慕う
柴田大輔さんは小学生にして不良の世界に足を踏み入れ、年上の不良との付き合いを始めました。
若い頃に東京都杉並区で最強の喧嘩屋と言われていた与国秀行さんは、小学生だった頃の柴田大輔さんと面識があったそうです。
その際、小学生だった柴田大輔さんが、なんと高校生の鞄持ちをしていたとして衝撃を受けたそうです。
柴田大輔さんは子供にしてリアルな不良の世界を見て学び、その英才教育が後の関東連合での活動に生きたそうです。
また、当時の柴田大輔さんは伝説的強さを誇った与国秀行さんに憧れ、体を鍛えるなどかなり影響を受けていたようです。
宮前愚連隊で8代目総長に就任。見立の影響で武器使用で都内No.1に君臨
小学校で道を外し、中学3年生(14歳)で初めて少年院に入り、8ヶ月後に退院。
この荒れ荒んだ頃に同じ杉並区で不良活動していた見立真一氏や瓜田純士氏、松嶋クロス氏と面識を持つようになりました。
やがて、柴田さんは杉並区が拠点の宮前愚連隊に入ると、伝統的に素手でのタイマンを美徳にしていたカラーを捨てて、刃物や金属バットでの戦いをメインに切り替えます。
柴田氏が凶器での戦いを持ち込んだのは、悪友である見立真一さんの影響だと言われています。
見立真一さんに関しては、別の記事に書いています。
そして、柴田大輔さんは宮前愚連隊の8代目総長となり、同グループは都内で最も恐れられる存在になりました。
また、悪友の見立氏が率いる永福ブラックエンペラーと良い関係たった為に、柴田氏率いる宮前愚連隊の両グループは関東連合に加入するグループの中でも強い協力関係で結ばれました。
宮前愚連隊として自宅襲撃や暴力団員に暴行。10代にして高収入を稼ぐなど商才を発揮
宮前愚連隊の総長となった柴田大輔さん。
柴田氏が率いる宮前愚連隊は、武器を使用した破天荒な戦い方で、同級生の見立真一さん率いる永福ブラックエンペラーと共に関東連合を名を都内に広げました。
敵対グループの自宅を襲撃したり、乱入した敵の集会にいた暴力団員に暴行するなど、普通の不良ではやらないような問題行動で度々警察のお世話になります。
送検後、当時、家裁での判断は試験観察処分の補導委託となり、配管工の親方に預けられた時期がありました。
しかし、柴田氏は暴力や暴言、飲酒運転などの問題行動を辞めず、親方は在宅試験観察にするように弁護士を通じて家裁に交渉、その結果1か月後には在宅試験観察となり自宅に戻ることになりました。
柴田氏は愚連隊での集金活動以外にも、チーム名を入れたステッカーの販売、イベントのパーティー券の販売、偽造テレホンカードの販売、携帯電話の横流しなどで高収入を稼いでいました。
同年代の高校生がアルバイトに勤しむ中、柴田さんは暴力団顔負けの商才を発揮し、多い時は100万などを稼ぎ、その利益のほとんどを宮前愚連隊の活動(バイクや武器の購入)に充てていたそうです。
10代にして圧倒的な資金力と人脈を獲得。刺殺で特別少年院に送られる
柴田大輔さんの商才のおかげで宮前愚連隊は少年チームでありながらも、豊富な資金力で周囲のグループを圧倒していました。
身長にコンプレックスがあった柴田さんは、この頃から筋肉増量剤であるステロイドを打って、人間離れしたガタイを作っていました。
10代でステロイドを使用できる不良なんて早々いませんね。
17歳になると、8歳ほど年上の関東連合OBと親交を持つことになりました。
関東連合の集会に警察が駆けつけた際、メンバーらでバイクで逃げ出した際に、一般人の方が犠牲になるという一大事がありましたが、この際に柴田さんはOBに相談し、バイクを処分して裏口合わせをして罰金刑のみで済ませることに成功。
この件からOBと信頼関係が出来上がり、距離が急に縮まり、次第に一緒にビジネスを展開していくことになります。
柴田大輔さんは少年時代からの不良活動の恩恵で、豊富な人脈を誇っていたため、それを武器にOBを通じて読者モデルの女性を実業家と合わせ接待させお金にするなどし、さらに人脈を広げていました。
この頃には実業家、クラブ関係、芸能関係の大人の方と知り合いになり、経済活動も地元から渋谷や六本木まで拡大されました。
ただ、この時期には活動範囲を広げたことで別エリアのグループから睨まれ、お互いに襲撃し合うということが増えていきます。
その結果、柴田さんは「五反田100人乱闘事件」を起こし、敵対メンバーを刺殺してしまいます。
「五反田100人乱闘事件」については別記事で書いています。
柴田さんは関東連合のOBに匿ってもらっていましたが、その後に逮捕。
特別少年院で2年間過ごし、20歳で出院。
出院後も早々に、敵対グループのメンバーを車のトランクに詰め暴行罪と逮捕監禁罪(優秀な弁護士の力ですぐ釈放)、Uターン禁止エリアで注意してきた男性を殴り傷害事件など相変わらずの破天荒な行為を続けました。
トーヨーボール事件では、ギリで刑務所行きを避けるなど、運に恵まれます。
トーヨーボウル事件については別記事で書いています。
暴行が始まる直前に襲撃への参加を避けれたそうです。
仮に柴田さんが襲撃に参加していたら、刑務所行きとなり、その後の実業家としての成功もあったかどうか分かりませんね。
柴田大輔は成人後に実業家として活躍。年商40億の会社の社長
成人後の柴田大輔さんは、ボディガードや大人女優のスカウトなど正業にも勤しみました。
芸能プロダクションを立ち上げたこともありましたが、うまく行きませんでした。
その後に広告系のIT会社を始めると、最初はどんぶり勘定で資金ショートし、見立真一さんから1000万の借金をするなど苦労します。
創立当初は苦労したものの、経営のコツを掴むと会社の立ち直しに成功しました。
最終的に柴田さんが経営する会社は、連結売上で最高で40億円ほどとなり、従業員数が80人ほどの規模に成長しました。
実業家としての柴田大輔さんの経歴は以下のようです。
2001年7月16日 | クリエジェント株式会社設立 |
2002年10月10日 | クリエンター株式会社設立 |
2003年6月12日 | ピー・ビー・ビー有限会社設立 |
2006年6月30日 | みなくる株式会社設立 |
上記の会社以外にもクリオス株式会社、空創株式会社、インフォコレクションといった会社の創立に関わりました。
多くのメンバーが詐欺や薬物関係で稼ぐ中、正業で堂々と大金を稼いだ柴田氏は不良のカリスマとなりました。
関東連合の締め付けが厳しくなり柴田大輔も影響を受ける
実業家として順調に社会復帰を果たした柴田大輔さん。
私生活では不動産、芸能界、大物実業家などと交流し、人脈も拡大していきました。
しかし、2008年3月に見立真一氏の面倒見だった金村氏が反関東連合グループに殺害される西新宿事件が発生すると、関東連合の中で暴力団化が急速に進んでいきました。
西新宿事件の詳細については別記事で書いています。
さらに2年後の2010年11月には11代目市川海老蔵暴行事件が起き、これを機に関東連合に対する社会の目が厳しくなりました。
海老蔵事件については過去に記事に書いてます。
これまで順調だった私生活も、グループが活発になっていったことで制限が増えてしまったのです。
その結果、柴田氏は1億5000万円以上の個人所得があるのに不動産の審査が通らず、証券会社の口座が止められるなど影響を受けます。
日本にいては気が滅入るとのことで、一時期はハワイに長期滞在していたほどです。
柴田氏がハワイから帰国したばかりの2012年9月に「六本木クラブ襲撃事件」が起き、その後に柴田さんは関東連合との関わりを辞めることになります。
柴田大輔が関東連合と決別した理由は見立真一とメンバーの板挟み?
2012年9月に起きた「六本木クラブ襲撃事件」ですが、その詳細は別記事に書いてあります。
事件の首謀者で、実行犯である見立真一さんは、事件後に重要指名手配犯となります。
柴田大輔さんは事件後に、主犯格で実行犯である見立真一氏とは後輩が運転する車の中で密会しています。
柴田大輔の経歴を時系列にまとめ。晩年は暴露系作家になり病み自殺も他殺説も残る
1979年5月24年 | 東京都調布市に生まれる |
1988年(9歳) | 小学校3年で東京都杉並区に引っ越す |
1990年頃(〜11歳) | 小学校高学年からグレる |
1991年頃(〜12歳) | 小学校6年生にして高校生の不良の鞄持ちをして不良の世界を学ぶ |
〜1993年頃(〜14歳) | 14歳までに宮前愚連隊に入り、その後に8代目総長に上り詰める。 |
1993年(14歳) | 初めて少年院に送られる。8ヶ月半過ごす。 |
1996年2月(16歳) | 暴力行為処罰法違反及び器物損壊罪で逮捕。 |
〜1996年まで(〜16歳) | 違法テレカ、携帯の横流し、組織名のステッカーなどの販売で稼ぐ。最高で100万を稼ぐ時もあり暴走行為の資金に充てる。 |
1996年12月(17歳) | 渋谷や六本木で実業家や芸能界の人の交流を始める。 |
1997年1月(17歳) | 集会後の暴走で一般人が亡くなるが、バイク処分して裏口を合わせ罰金刑だけで済む。 |
1997年7月(18歳) | 五反田100人乱闘事件で敵対メンバーを刺殺。隠れるも10月に逮捕。特別少年院送致となる。 |
2000年3月(20歳) | 特別少年院送致を出院。 |
2000年4月(20歳) | 敵対するグループのメンバーを車のトランクに入れる。暴行罪と逮捕監禁罪の容疑も優秀な弁護士の力で執行猶予付きで社会復帰。 |
2000年5月(20歳) | 一般人を殴り傷害罪で逮捕。 |
2000年5月5月13日(20歳) | トーヨーボウル事件では直前に行動を共にするも、襲撃には関わらない。 |
〜2001年まで(〜21歳) | ボディガード、スカウトなどの仕事を経験しコネクションを増やす。 |
2001年7月16日(22歳) | クリエジェント株式会社設立。実業家として本格的に始動。 |
2003年6月12日(24歳) | 芸能プロダクション「ピー・ビー・ビー有限会社」設立 |
2006年6月30日(27歳) | 株式会社みなくる設立。 |
2008年3月16日(28歳) | 「西新宿事件」で関東連合の関わりが再度強化される。 |
2010年11月(31歳) | 関東連合メンバーによる市川海老蔵事件が起きる。柴田氏は実業家として成功するが賃貸などの審査が通らない状況になる。 |
2012年9月(33歳) | 柴田氏がハワイから帰国した後に六本木クラブ襲撃事件が起きる。事件後に主犯格の見立真一と他メンバーの板挟みになり脅迫され離脱。 |
2013年(34歳) | ”工藤明男”のペンネームで関東連合の暴露本を出す。以降、脅迫を受けるようになり身を潜めて暮らす。精神的に病む。 |
2016年(37歳) | 柴田大輔の本名で活動を開始する。メディアなどにサングラス姿で出演。 |
2021年初年度(40歳) | コロナ禍で感染し重症化する。 |
2021年11月28日(41歳) | 自殺によって死去。※死因は諸説あり |
関東連合の暴露本でベストセラー作家になるもコロナ禍に不自然な自殺※諸説あり
多くの伝説を残した柴田大輔さんですが、晩年は仕事への影響や、関東連合の体質に対して嫌悪感を抱くなり、離脱。
2013年頃から”工藤明男”のペンネームで関東連合関係の暴露を出し続け、ベストセラー作家となりました。
次第に本名での活動を始め、さらにはサングラスをつけてのメディア出演を果たすなど、活動は活発になっていました。
その後、2021年11月に42歳の若さで自殺で死去。
晩年に出した暴露本の大まな内容と、亡くなった当時の状況については別記事に書いてあります。
柴田大輔さんは関東連合の暴露を始めた頃から、脅しを受け、身を潜めて暮らすなど病んでいました。
さらには亡くなった2021年には「六本木クラブ襲撃事件」の一部犯人らの出所が控えており、精神的に追い込まれていたことから、自殺だったとの見込みが強いです。
ただ、亡くなった後に仲の良い作家の沖田さんが、死の直前に柴田さんから電話があり、その後にLINEでやり取りしていたことから、他殺説が出始めました。
現在までに、柴田大輔さんの最期に関しては、謎が多く残ります。
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