石元太一さんといえば、関東連合のメンバーとして有名です。
これまでに関東連合が起こした数々の事件やトラブルに関わった人物としても知られ、知名度は組織の中でもダントツです。
今日は、石元太一さんの生い立ちや、経歴について関係に書いてみたいと思います。
石元太一は浅草生まれ世田谷育ち。組長の父・石元正弘と4人の姉
石元太一さんは1981年に東京都台東区に生まれ、その後は世田谷区に引っ越し少年期を過ごしています。
現在ではたくましい体を誇る石元さんですが、小学2年生の頃に盲腸で入院した経験があるなど、遺伝的に体が強いわけでないようです。
父親の石元正弘氏は東京都台東区浅草に本部を置いた”石元組”の初代組長です。
大きくなるまで母に父親の仕事を秘密にされていましたが、周りの人たちが話している内容から何となく感じ取り、子供ながら人に話してはいけない職業であると感じ、友人に父親の仕事について話したことはなかったそうです。
石元太一さんは15歳の頃に尊敬する父を亡くし、その後は母子家庭で育っています。
兄弟は、上に姉が4人いますが、全員が同じ父親というわけではないようです。
ブログにて腹違いの姉に送られてきたという、幼い頃の自分の写真をアップしていたこともあります。
姉の1人は2015年に”くも膜下出血”で亡くなられたそうです。
名前 | 石元太一(いしもと) |
出生地 | 東京都台東区浅草 |
出身地 | 東京都世田谷区 |
生年月日 | 1981年12月13日 |
出身中学 | 東京都世田谷区立鳥山中学校 |
団体 | ブラックエンペラー千歳台(千歳台黒帝会)。関東連合。住吉会住吉一家青田会(破門)。 |
家族 | 父は石元会組長・石元正弘。母親。4人の姉(何名かは腹違い)。 |
父・石元正弘組長の武勇伝。亡くなる最後まで関係者に慕われた父
父親の石元正弘氏は東京都台東区浅草に本部を置いた”石元組”の初代組長です。
父の石元正広さんは大阪出身ですが、石元太一さんの祖父(父)から勘当されて上京。
父の実の兄弟も、みんな”その道”に進んだということで、ある意味、石元太一さんはサラブレットということです。
石本太一さんは、父親の写真をブログにアップしたこともあり、思い出を綴るなどしていました。
ブログで綴られた父の武勇伝としては、
・ある親分が、北海道のホテルで敵対組織に囲まれた際、父に遺言を残す為に電話。「骨だけは拾ってください」と話すも「それ以上言うな」と電話を切り、敵対組織の本部が同じ浅草を拠点にしていたため、お茶を飲みに行くフリをして単身で乗り込み、相手の会長を監禁し「指一本触れてみろ、わかるな?」と親分を解放させた。
・右翼団体のパーティーをで開催した際、堀政夫氏と稲川聖城氏(稲川会の要人)が交通事情により30分程遅れると聞いて『待ってられるか!』と言って会場を後にし、2人が拍手で迎えられた更にあとに堂々と戻ってきた。
・徳島で行なわれた(山口組)四代目の襲名式に関東から参加したのは、石元会長、萩原元、平野賀津男の3名だけでは?と言われていた。
・義理で山口組の放免祝いに出席した際、当時山口組で一番大きいと言われていた加茂田組の加茂田重政組長が父を見つけ『おお、石元君!』と手を上げ近寄ってきたのに対し『お、なんだ加茂田君』と、加茂田組長のネクタイを両手で締め直し、両肩をつかんで体を反転、加茂田組長の背中を押して会場から追い出す。組長は気まずくて会場に戻れず。
・服役中の横浜刑務所で父を亡くした際に葬儀で対面したことがある70歳の方と再会し、家族が「お父さん」と泣き、それを見て涙してる親分たちの姿がある葬儀は100回以上参加した中で初めてだったと言われる。
・父の死後、墓は千葉県の浦安の海近くと大阪の2つにあるが、2つの墓どちらも世話になった方によって綺麗に管理されている。
また、ブログでは父に東京ドームのマイク・タイソンの試合に連れて行ってもらったこと。
浅草の父の家に行くと朝ごはんは和食だったこと、父が大阪出身だったということで毎年連れて行ってもらっていたことなどについても回想しています。
父の運転手をしていた方は、石元太一さんが収監された後も差し入れを持ってきてくれたり、刑務所で父に助けられ尊敬する人に出会ったり、現在でも父の影響に支えられている部分もあるようです。
母親は真面目な女性。服役中にコロナ禍、癌を患い会えないまま死去
石元太一さんは子供の頃に父と母が別居し、父は15歳の頃に亡くなっています。
少年時代に非行に走っていたことから、家庭環境が荒れていたのでは?と思われますが、引き取った母親はとても真面目な方でした。
母は幼い太一氏に父親の仕事を黙っておくなど気を遣ってくれ、そんな母と一緒に過ごした時間が長いことから、自分がグレたのは家族ではなく自分自身の問題だと思っているそうです。
母親は石元太一さんが「六本木クラブ襲撃事件」で収監された後に癌が発覚しています。
そして、2020年からはコロナ禍の影響で面会できない状況が続き、2023年11月に死去しています。
母親は病気になる前から、収監される前に母親に孫を見せたかったと語るほどに、母親のことが大好きだったようです。
母が元気な内に孫を抱かせてあげたいという気持ちは今も強くあるが、やっぱりそうした存在がいることで自らの重荷や弱い部分となって辛いだけの気もしてしまう。「結婚」2014年10月4日
母親が亡くなったことを報告した記事の中では、最後まで母親に会えなかったことに対する寂しさを綴っていました。
刑期に対して不満を抱えていただけに、もし状況が違えば母親に会えた、もっと長生きていたかもしれないと、やり切れない気持ちになったそうです。
石元太一は烏山中学校卒業後に千歳台ブラックエンペラー総長で高校には進学せず
少年期を世田谷区で過ごした石元太一さんは地元の烏山中学校に進学しました。
進学した当時の烏山中学校は不良校であり、授業中は漫画を読むかゲームをしている生徒が多く、校門前には生徒が無免許で登校してきたバイクを並べていたそうです。
中学の頃から先輩にカンパをするように言われて恐喝を繰り返すなど素行が荒れていき、この頃から頻繁に警察のお世話になるようになりました。
卒業後は高校に進学していませんが、関東連合の掟「高校に通ってはいけない」の決まりを守った、もしくは15歳で父親が亡くなったことが影響してると見られます。
出所後に暴走族の総長を倒して乗っ取るも「トーヨーボール事件」を起こす
16歳の時に「千歳台ブラックエンペラー」に入り、少年院から出所後に15代目総長に喧嘩で乗っ取るような形で16代目総長に就任。
本人は”15代目から引き継いだわけではなく喧嘩で下して乗っ取る形だったことから15代目を名乗った方が正解かもしれない”と語っています。
関東連合については、他の記事で解説しています。
当時は毎日が敵対する組織への奇襲や命かけの戦い、先輩からのヤキだったと言うことで、次第に命を失くすことへの恐怖心が薄れていくなど麻痺した状態になったなったそうです。
10代の頃の石元太一さんは有名な「トーヨーボール事件」を起こすなど大荒れ。
トーヨーボウル事件の詳細に関しては別記事で書いてます。
10代後半のほとんどの時間を少年鑑別所や中等少年院、特別少年院で過ごしました。
藤井リナや上原美優との交際説や「海老蔵事件」で有名人になる
成人になってからの石元さんはより六本木や西麻布界隈の社交場に出入りし、様々な芸能人や実業家と交友を深めました。
有名な交友関係としては、大王製紙の元会長にあたる井川意高さんや、ABCホームの元会長にあたる塩田大介さんなどです。
その一方で、関東連合関係の付き合いも継続し、2008年に起きた西新宿事件の伏線にも関与しています。
10年代前半頃、ファッション系のスナップに関東連合のメンバーが登場することが増え、世間的にも関東連合メンバーの顔や名前は知られるようになりました。
石元太一さんは目鼻がハッキリした男前なヴィジュアルをしていただけに、「この人が元総長?」とギャップがあり、一際目立っていました。
そんな中、タレントの上原美優さんが2011年5月12日に恋人が外出した後に自殺するという事件があり、その彼氏が石元太一さんではないか?という噂が広まりました。
上原美優さんの遺書に石元太一さんの名前が書かれていたこと、亡くなる前のブログで恋愛に纏わる悩みを綴っていたことから、石元太一さんとの関連付けがされネット界隈で話題となりました。
結果的に、上原さんの自殺と石元さんは直接は関係ないものの、生前は友人であったことは事実でした。
それまでは石元太一さんは”知る人ぞ知る”存在でしたが、この上原美優さんの自殺直後の都市伝説から、石元太一さんの存在は広く認知されるようになりました。
上原美優の件からすぐに市川海老蔵事件で再び話題になる。藤井リナとの交際
上原美優さんの件で存在感を放った石元太一さんですが、同年の2010年11月には市川海老蔵さんの事件で再び脚光を浴びます。
海老蔵事件は過去に別記事に書いています。
当初は海老蔵さんが関東連合のメンバーから暴行を受けたという情報のみがピンポイントで広がり、その段階で「もしかして石元太一ではないか?」との予想がされていたのです。
その後に、海老蔵さんが関東連合メンバーと飲んでいた席で、灰皿にテキーラを入れて関東連合メンバーに一気飲みを迫るなどの経緯が明るみになりました。
暴行を行ったのは当初噂された石元太一さんではなく、逮捕されたのは後輩の伊藤リオンさんでした。
石元太一さんは暴行は加えていないものの同席しており、海老蔵さんに煽られた当事者で、それに後輩のリオンさんが激怒したとの背景が語られていました。
また、当時の石元さんはモデルの藤井リナさんと交際しており、その席に藤井さんが同席し、藤井リナさんが海老蔵さんからのナンパをあしらったことで海老蔵さんの態度が悪くなったとの都市伝説もあります。
ジム経営や芸能界デビューも六本木クラブ襲撃事件で逮捕
その後も界隈で有名人であった石元太一さん。
2012年にはジムの経営者になったことがメディアで報じられました。
さらには、不良としての半生を綴った本の出版と、話題が尽きませんでした。
2012年8月には芸能界デビューと、 2013年公開の映画「アンダー・フェイス」(藤原健一監督)の主演が発表されるなど順風満帆でした。
しかし、芸能界デビュー発表から1ヶ月後の2012年9月には「パチンコをするだけで仕事となる夢のようなビジネス」と、応募した20代の女性から現金を詐取した疑いで逮捕。
さらに同月9月に別人が住むように装いマンションの入居契約をしたとして、詐欺容疑で再逮捕されました。
石元太一さんは、不良として有名になり過ぎた故に、契約ができずに犯行に至ったそうです。
ちなみに調査が入った石元さんのマンションから7億円が押収されたとの週刊誌記事がありましたが、この件に関してはブログの質問のコーナーで”肯定はしていない”です。
それだけでなく、この9月には有名な「六本木クラブ襲撃事件」にも関わっています。
「六本木クラブ襲撃事件」への関与で逮捕
全てが順調だった矢先、詐欺関係で2度も逮捕され、さらには六本木で起きた襲撃事件に関係してしまっています。
六本木クラブ襲撃事件の詳細については、別記事で書いてあります。
当初は凶器準備集合容疑で逮捕状が取られ、その後に急遽殺人罪の疑いが掛けられ、最終的には傷害致死罪による追起訴を受ける形となりました。
石元氏の逮捕と求刑に関しては、多くの有識者が違和感を感じており、本人も納得が行かずに上告、再審請求などを行なっています。
石元太一の出所時期は2028年〜2031年。懲役15年に不服で戦い続けている
石元太一さんは現在、横浜刑務所に服役中で、出所時期は2031年に予定されています。
石元太一さんは、一審で懲役11年を言い渡されましたが、控訴した結果、二審で懲役15年という判決が下りました。
2014年7月からブログ「反証」を開設し、事件と自分の立ち位置について詳細に綴っており、一部ファンからは同情の声が上がっています。
2016年に上告したものの棄却され、懲役15年が確定しその後も服役。
2020年6月にも再審請求を行いました。
ブログでは捜査過程で不可解な点があるとして、事件までの周りの様子や動きから、赤裸々に書かれており、最後まで諦めずに戦う姿勢を示しています。
石元太一の長期刑は見せしめ?交流のあるライター・久田将義が言及
当初、石元太一さんに対する判決や求刑に対して反論するのは本人しかいませんでした。
その後、アウトロー系の媒体で活躍するライター久田将義氏も、石元さんと直接やり取りをする中で、石元さんの扱いに違和感を感じていると言及されています。
2021年にYouTubeに出演された際にも、石元太一さんの件について触れ、そこでも再度言及されていました。
日本の受刑者と手紙や面会のやり取りが多いというHOMIE KEIさんも、刑務所での石元太一さんの扱いを聞いて驚きのリアクションを見せていました。
しかし、動画のコメント欄を見ている限り、残念ながら石元太一さんに対してはネガティブな感情を持った方が多数です。
資料や映像が見れない一般層からすれば、警察側と石元さん側のどちらを信用すれば良いのかわかりませんので、有名な前科を抱える石元さん側を否定的に見てしまうのも無理がないです。
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