たまにネットで見かける、2000年に関東連合と練馬区のチームが大規模な抗争をしたという都市伝説。
関東連合のWikiには「同練馬区が現場となった現役メンバーによる殺人事件(2000年)」との記載がありますが、信憑性の強いソース記事がありません。
人が亡くなるほどの抗争であれば、ニュース記事などが残っていてもおかしくありませんが、残念ながら抗争を取り上げている濃いソースはありませんでした。
今日は、ほぼ都市伝説的に語り継がれている、関東連合と練馬のチームの間に起きた抗争について、ネットで拾える範囲で分かりやすくまとめてみたいと思います。
2000年の練馬事件。関東連合VS練馬連合(悪霊・菊乱会)の抗争
関東連合のウィキにチョロっと登場する”同練馬区が現場となった現役メンバーによる殺人事件(2000年)”の記述。
2000年に練馬連合(全狂連/悪霊/菊乱会)と関東連合(宮前愚連隊/千歳台ブラックエンペラー/用賀喧嘩会/小次郎/神州連合/三鷹スペクター)の抗争の中で、死者が出たことに関する記述だとされます。
関東連合として組織については別記事で詳細を書いています。
ちょうど、関東連合がトーヨーボウル事件を起こした後で、柴田大輔氏、伊藤リオン氏、石元太一氏など主力メンバーが捕まって不在の時期に起きた抗争です。
当時は少年法の改正前ということで、抗争の内容は10代の少年たちとは思えないほど過激でした。
メンバーの実家を襲撃するなど激化。植物人間や下半身不随、命を落とした人も。
ネット上に残る都市伝説的なコピペの内容から、両者の間に起きたことをまとめると↓
※練馬連合側(悪霊/菊乱会)
※関東連合側(宮前愚連隊/千歳台ブラックエンペラー/用賀喧嘩会/小次郎/神州連合/三鷹スペクター)
・練馬連合が関東連合のエリア(世田谷区や杉並区)にチーム名の落書き
・宮前愚連隊が練馬連合(悪霊、菊乱会ら)のスプレー書きを消して回る。
・激怒した練馬連合が関東連合の溜まり場を潰して回る。
・世田谷区のファミレスの駐車場にいた関東連合のメンバーらが刺される
・宮前愚連隊が悪霊襲って負傷者出す。
・悪霊側が返しで宮前愚連隊の大嶽氏らの家を金属バットで襲い、窓ガラスから何から破壊する。
・その返しで宮前愚連隊側が悪霊のメンバーを拉致し、腕数十箇所刺して病院前に放置。メンバーは命を落とす。
・悪霊が世田谷乗り込んで用賀喧嘩会OBをめった刺して植物人間にする。
・千歳台ブラックエンペラーのあるメンバーは抗争の中で下半身不随となる。
・OBの話し合いの元、両者4人ずつ出してタイマンし、負けた方が解散と決着をつけることにする。
・関東連合がプロ格闘家を雇い勝利し練馬連合は解散となる
↑大まかには、このような流れのようです。
wikに書かれている2000年の練馬区との事件というのは、宮前愚連隊のメンバーの実家が襲われた返しだったということがわかります。
スプレーの落書きを消されたことが発端で、死者が出る大ごとまでに発展したというから驚きです。(※実は埼玉の上尾の不良がイタズラで壁に☓をしてチーム名や名をスプレーしたのが真相とも言われてます。)
4対4のタイマンで関東連合が格闘家を雇って勝利
抗争が過激化していったため、関東連合のOBと練馬のOBが話し合いし、4対4のタイマン対決で決着をつけることになりました。
タイマンに挑んだのは、練馬側は悪霊の土支田支部、富士見台支部、平和台支部の各頭と菊乱会の頭。
そして、関東連合側は総合格闘家2人、キックボクサー1人に依頼し、1人は純血のメンバー。
決闘の場所は埼玉の和光市でした。
悪霊の土支田支部、富士見台支部、平和台支部の頭は関東連合が雇った格闘家たちになすすべなく敗北。
この時点で関東連合3勝で練馬連合が0勝、関東連合の勝利は確定しました。
しかし、最後の4戦目では、菊乱会の頭が奇跡を起こします。
菊乱会の頭は、圧倒的に強い相手に負けじと食らいつき、膝をくらいながらも必死に相手にしがみつき、必死になって耳にかじり食いちぎり、相手は悲鳴をあげて倒れたそうです。
意地の1勝を練馬組にもたらしました。
全体的に関東連合の勝利で終わりましたが、菊乱会の頭の最後の決死の勝利はノーサイドな雰囲気で拍手が起きたそうです。
そして、菊乱会の見事な戦いぶりは伝説となったということです。
(※菊乱会の頭は引き分けだったという説もあります)
関東連合はプロに依頼していない説も存在
関東連合がタイマンに送り出したメンバー3人がプロの格闘家だったとの書き込みが多数ですが、一方で純粋なメンバーで戦ったとの説もあります。
1人は関東連合の純粋なメンバーである、用賀喧嘩會の代表・宮園氏だったとの説。
または、宮前愚連隊の大嶽正史氏が後にプロボクサーになっていることから情報が撹乱して、間違って伝えられているだけでは?との見方もあります。
練馬側が負け惜しみで、関東連合がプロに依頼してズルしたと言い張ってるだけとも言われています。
練馬連合との戦いの都市伝説の信憑性。石元太一のブログで言及を参考
あまりにもネット上のソースが薄い、2000年の練馬連合と関東連合の抗争。
当時、現役だった石元太一氏のブログを参考にすると、そのような抗争があったこと自体は事実だと伺えます。
先日、地元の人間達と一緒に、三鷹出身の先輩が面会に来てくれた。
その先輩もまだ外にいた頃、俺達と練馬の人間達がもう2度とトラブルにならないよう食事の場を設けようとしてくれたり、お互いの為を思い、いろいろと動いてくれていた人の1人だ。
2014年7月31日ブログ「1つ1つの積み重ねの大切さ」
収容されている刑務所に、かつての先輩が面会に来てくれたそうですが、その先輩は過去に練馬と揉めたことを気遣ってくれて、両者の間に入ってくれていたそうです。
これを読んでいる限り、関東連合と練馬が揉めた過去は、両者にとってしんどかったことが伺え、大規模な抗争があったことは事実だったと伺えます。
お互いに4名を出してのタイマンも事実?
練馬と関東連合の都市伝説の中で最もファンタジーなのが、4人出してのタイマンのくだり。
作品内で環状連合と比怒羅が代表者を5名ずつ出してタイマン合戦をする“飛鳥山戦争”という抗争事件が出てくるのだが、これは俺が特少に入っている間に起きた練馬連合との抗争事件をモデルにしているのかな。
だとしたら、著者の草下シンヤさんも本当にいろいろと調べてるよなー。
2021年3月20日ブログ「半グレ」
石元太一さんは練馬区との抗争が激化する手前、トーヨーボウル事件で特別少年院に入っていたため、抗争には参加していません。
関東連合を参考に書かれた「半グレ」という作品に、練馬との争いが書かれており、その一部を「よく調べてる」と評していたことから、4人出してタイマンをするなど、大まかな流れは間違っていないということです。
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