五反田七夕抗争事件の全貌。相手が亡くなり関東連合の柴田大輔が逮捕

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過去、幾度も敵対グループと激しい抗争を繰り広げてきた関東連合。

抗争史の中でも初期に起きたのが1997年7月7日に起きた「五反田七夕抗争事件」です。

なんとも、死者が出るほどの激しい抗争だったようで、事件には有名メンバーの柴田大輔さんもいました。

今日は、「五反田七夕抗争事件」についてわかっていることをまとめてみたいと思います。

五反田七夕抗争事件の始まりは関東連合の経済活動とシャッターの落書きを巡るトラブル?

五反田七夕抗争事件は、別名「五反田暴走族100人大乱闘事件」とも呼ばれています。
大乱闘に発展した理由に関しては諸説ありますが、一般的に言われているのが関東連合に加入してる柴田大輔氏率いる宮前愚連隊が、都内別エリアの組織と揉めたことが発端と言われています。
関東連合という組織については別記事で詳細を書いています。
当時の宮前愚連隊(関東連合)のリーダーーである柴田大輔さんは、世田谷や杉並を拠点に活動していましたが、ある時期から都内での活動範囲を広げました。
自分らのテリトリーを取られると危機感を感じた別組織は、関東連合に対して牽制の意味を兼ねて、彼らの拠点の杉並区や世田谷区にチーム名の落書きをするようになります。
対抗していたグループは、主に品川区や大田区を拠点にした流狼、無法、ZERO(大井・荏原・品川)、R20G(池上・雪谷・鵜の木・上池)など、狂走連盟が多かったようです。
関東連合は敵対グループが店のシャッターや壁などにスプレーしたグループ名を落書きを、×メークを付けたり消したりしていました。
やがて、両グループのやり合いは大きくなっていき、そして1997年7月7日に、100人規模の大乱闘に発展したとのことです。

五反田七夕抗争事件と呼ばれる大人数の乱闘内容

関東連合と、対立グルー方の乱闘は、1997年7月7日に品川区西五反田の路上で起きました。
両者、50名ずつはおり、合わせて100人規模の大乱闘となりました。
柴田大輔さん率いる宮前愚連隊(関東連合)は刃物や金属バットなどの凶器も積極的に使用するため、乱闘の現場は血を流す人で溢れました。
柴田大輔さんに関しては別記事で詳細を書いています。
少年グループ同士の抗争でありながらも、成人したOBらも駆けつけ入り乱れるカオス状態だったようです。
重軽傷を負う者が続出し、OBの中でもビビって裸足のまま逃げ出す人もいたようです。
そして、関東連合側のリーダー格だった柴田大輔さんは相手メンバーの18歳少年の腰を刃物で刺し、その相手は五反田の交差点の車屋の横の路地道の自動販売機の前で倒れ、そのまま亡くなってしまいました。

柴田大輔は関東連合OBに匿ってもらうも後輩の裏切りで逮捕。特別少年院に入れられる

柴田大輔さんは、1997年7月7日の抗争で、刺した相手が亡くなったことで、殺人容疑で指名手配となりました。
そして、両グループのほとんどの少年達は凶器準備集合罪等で逮捕。
警察から追われる身となった柴田大輔さんですが、関東連合のOBの計らいで匿ってもらうことになります。
先輩のツテで約3か月間は匿ってもらいました。
しかし、後輩が下手打ちをしたことで柴田さんはヤキを入れ、その後に後輩の逆恨みで潜伏先を警察に通報されてしまいました。
そして、1997年10月に柴田大輔さんは逮捕され、特別少年院送致となりました。
柴田大輔を匿ったOBも犯人隠避の容疑で逮捕されましたが、起訴猶予で釈放となりました。
ちなみに柴田大輔さんは2000年3月に出院し、出院してすぐに裏切った後輩が所属してるグループのリーダーにケジメ金を要求し、200万を受け取っています。

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